「自然な会話」必ずしも、上乗な「劇的対話」でないこと

 かういふ種類の白は、一時、いやでも、おほ方の脚本中に発見する白である。こんな月並なことをくどくどと喋舌られてゐては、聞いてゐるものがたまらない。「自然な会話」必ずしも、上乗な「劇的対話」でないことはこの通りであるが、その中に何も劇的事件がないからだ、内容がないからだと云ふかもしれない。 それも慥《たし》かに一つの理由である。然し、そんならこれはどうだ。「今日は」「おや、こいつはお珍らしい」「降りますね、よく」「どうかしてますね」「みなさん、お変りは……」「ええ別に……。ところで、奥さんがどつかお悪いつていふぢやありませんか」「なあに、大したことはないんです。脚気だと云ふんですが、何しろ、あの気性でせう、無理をするんです、少しいいと」「無理をね……。脚気か……こいつ」 前と同じ場面、同じ人物である。云つてゐることも違はない。文句を少し変へただけである。 それだけで、既に多少「月並」でなくなつてゐると思ふ。会話が生きてゐる。より「劇的対話」になつてゐる。舞台の言葉になつてゐる。この二つの面の優劣は、さほど格段の差に於て示されてゐないことは勿論であるが、少しでもそれが認められれば、それでいい。 この相違は、優劣はどこから来るか。前の方は、言葉そのものの印象《イメエジ》がぼんやりしてゐる。言ひ換へれば、大抵の人間が、大抵の場合に、殆《ほとん》ど無意識にさへ口にする言葉使ひである。従つて心理の陰影が稀薄である。特殊な人物の、特殊な気持が、はつきりつかめない。つかめても、それに興味がもてない。つまり、お座なりといふ感じが退屈を誘ふ。機械的といふ感じが、韻律の快さと反対なものを与へる。感情の飛躍がないから注意力を散漫にする。 これは単に一例にすぎないが、もつと複雑な心理や、重大な事件を取扱つた場面でも、これに似た表現上の欠陥が、人物の対話を「非舞台的」にしてゐることは事実である。実生活の断片、これほど自然な場面はない筈であるが、同時に多くの場合、これほど非芸術的な場面はないと云つてもいい。殊に現代日本人の生活に於て、この感が愈々《いよいよ》深い。

— posted by id at 10:24 am  

T: Y: ALL: Online:
Created in 3.6367 sec.

http://2ch-tool.net/