舞台の上の巧みな対話

 舞台の上の巧みな対話、これは、現実の整理によつて初めて得られるものである。一見、こんな気のきいた対話が、この人物に出来る筈はないと思はれるやうな対話が、舞台上では、あたり前の「日常会話」になり、見物を退屈させないやうな「日常の会話」、それが満足に書けて、初めて劇作家は劇を書くことができるのである。人物にある議論をさせる場合、ある述懐をさせる場合、ある説明をさせる場合、ある哀訴をさせる場合、何《いづ》れも、この「呼吸」が必要である。議論そのもの、述懐そのもの、説明そのもの、哀訴そのものが、戯曲の一節として、何も妨げになるものではない。一時排斥された独白さへも、それが立派な「劇的文体」によつて語られる場合には、優れた一つの「劇的場面」となり得るのである。舞台の上で読む「手紙」さへも、この心掛けで書かなければならない。 今まで、主として、写実的な場面について論じたやうな形になつたが、もともとこの写実といふことが、既に現実の複写ではないのであるから、現実整理の筆を更に現実修正の域に押し進めることは、作者の趣味、才能によつて如何なる程度までも許さるべきである。現実修正は更に現実変形、現実拡大、現実様式化に押し進めることもできる訳である。ただその根柢に、その核心に、飽くまでも実人生の姿が潜められてゐなければならないことは、文芸の本質から云つて当然なことである。これはもう、「表現」以前の問題である。制作過程の出発点である。従来わが国に紹介せられた外国劇が、日本現代劇を本質的に発達させ得なかつた理由として、その翻訳が単に劇の思想|乃至《ないし》形式のみを伝へるに止まつて、真の「劇的美」を形造る一要素、即ち「文体のもつ戯曲的魅力」を等閑に附してゐたといふ一事を前章にも一寸述べておいたのであるが、これはもう一度繰返して云ふ必要がある。 ここでその翻訳の例を挙げることは容易であるが、自分の経験から云つても、嘗《かつ》てイプセンの邦訳(誰のだつたか忘れたが)を読んで、当時多くの人々と共に少からず感心し、なるほど、近代劇の巨匠と云はれる筈だ、これは天才に違ひないとひとり大いに悦に入つてゐたところが、間もなく同じ作者の同じ作品を、仏語訳で読み返して見て、殆ど別なものであると云ふ感じを受けた。邦訳は、無論そんなに悪いものではないと思つてゐたにも拘はらず、仏訳を読んだ時の、あの感動は、実に名状し難きほどのものであつた。これはまた、とても素敵なものだ。どうしてどうして、邦訳で読んだ時のイプセンは、いはば、餡をさらつた饅頭のやうなものであることがわかつた。翻訳劇といふものは、さては中味のない饅頭だな、うつかりしてゐてはいけない、と私は思つた。 それから私は、チエホフ、ストリンドベリイ、ゴオルキイなどを仏訳で読み始めた。悲しいかな、仏訳とても既に翻訳である以上、原作の妙味はどれだけ失はれてゐるかわからない。さう思ふと、露西亜語もやりたくなる。スカンヂナヴィヤの言葉も覚えたくなる。私にはそれだけの根気はなかつたが、兎に角、日本語に訳された欧羅巴の戯曲は、同じ訳語でも、欧羅巴の一国語に翻訳されたものに比べて見ると、雲泥の差がその間に、また在ることを発見して驚いた次第である。私はイプセン及びストリンドベリイの仏訳だけは、世界的に名訳と認められてゐることを知つたので、まあ、安心ができると思つた。殊にイプセンの翻訳者ブロゾオル伯は諾威《ノルウェイ》人ださうで、私はすつかりよろこんだ。そして、殆ど原作を読むやうな信頼と親しみとをもつて、一作一作と読んで行つた。邦訳では、それほどイプセンが詩人であるとは思はれなかつたが、こんどはまた、作品の思想の深刻味や、結構の手堅さなどよりも、時代時代に応じてイプセンが、それぞれの意味の優れた詩人であり、殊に、象徴的傾向が鮮やかになるにつれて、近代的な、含蓄の多い対話の、巧妙な駆使者であることを知るに至つた。それと同時に、邦訳を読んだ時には、あんまり気づかなかつたそれぞれの作品の「喜劇味」――思想的にも、また文体の上からも――さういふものを仏訳の中にまざまざと見出して、こいつは面白いぞと思つたのである。 更に自分の恥さらしをすれば、仏蘭西の戯曲ならば、原作が読めると思つて、いろいろ読み漁つたものを、これはここが面白い、あれはあそこが面白いと独りぎめをして悦んでゐた五六年前は、今から考へると、全く戯曲の文体といふものについては盲目であつた。例へば、ポルト・リシュのものなどを読んで、なるほどこれは恐ろしい心理解剖家だ、鋭いものだ、細かいものだ、さう思つて頭を下げてゐた。ところがその後、巴里で暫らく暮して見て、日常の会話にいろいろな疑問が起つたり、あんな言葉をあんな場合に使ふのかといふことを知つたり、あの文句をああいふ風に云ふのかといふことを覚えたり、ああいふ人間が、ああいふ手真似をするんだなといふことを気づいたりしてゐるうちに、ポルト・リシュをもう一度読み直して見てびつくりした。やれやれ、白を云ふ人物の姿、顔、表情、身振、手真似が悉《ことごと》く眼に浮ぶではないか。コメディイ・フランセエズに行つて、『過去』や『ふかなさけ』の舞台を観て、更に面喰つた。やれやれ、あの文句は、ああいふ調子で云つた方がよいのか。あの女は、あれくらゐに泣いておけばいいのか。あの男の、あの長台詞は、ああ云へば、なるほど退屈はさせない。私は、しかもこの舞台の上で、ほんたうに、ポルト・リシュの戯曲がわかつたのである。ポルト・リシュの文体がわかつたのである。ポルト・リシュの芸術が解つたのである。私は、それ以来、芝居を観に行くことが怖くなつた。今まで読んだ脚本が、自分にどれほど解つてゐないかといふ試験をされに行くやうなものであつたから。 私は、抑《そもそ》も戯曲とは……と考へた。抑も戯曲とは、なるほどこれかなあ、と朧ろげながら感じた。その感じを強ひて云へば、結局、何かにも書いたことがあるが、「人間の魂の最も韻律的な響き(或は動き)を伝へるもの」に外ならない。これは、云ふまでもなく、「語られる言葉の、あらゆる意味に於ける魅力」の表現である。 外国の戯曲は、一体どの程度まで翻訳によつて、その魅力を失はずにすむか、かう考へたならば、翻訳者の責任は、それが戯曲であるために、殊に重大さを増すわけである。私は戯曲だけは、少くとも戯曲を書き得るものの手によつて翻訳せらるべきだと思ふ。それでさへ、十分とは云へない。翻訳者の語学力は、例へ小説は訳し得ても、戯曲は待つて呉れと云ひたいのが普通である。 くどいやうであるが、この問題についてもう少し述べておかう。今、ある戯曲が二通り翻訳されてあるとする。どちらも意味から云へば正確であり、文章も読みづらくなく、日本語として、別に不都合のないやうなものだとする。而《しか》もその文体に於て、言葉の調子に於て、場面の動きに於て、つまり全体の「命」と「閃き」に於て、両者に格段の差があるとする。それは翻訳者が如何に翻訳が巧みであるかといふ前に、如何に原作が解つてゐるかといふ問題になるのである。一節だけを示したのでは、絶対的の価値批評はできないが、試みに仏蘭西語で次の句が、幾通りの日本語になり得るかを考へてみるがいい。而も、それが実際の場合にはただ一つの訳し方しかない。 Tu as raison.[#ここから2字下げ]

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